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Kleftis i I pragmatikotita
   盗人(ぬすびと)か空蝉(うつせみ)か/宿命と偶然と自由意志

ギリシャ映画 (2001)

ある一家の3人の姉弟妹が1日の間に体験する出来事を、3つの視点から描いた演劇的、哲学的な作品。姉弟妹は、厳格な女性彫刻家、ソフォクレス作『アンティゴネ』(BC441年頃)の役にはまってしまった男、2年前の欲情中にわが子を事故で焼死させてしまった母。それに、部外者としての盗人が絡む。しかし、「盗人」と呼称されてはいるが、実際に何かを盗むわけではなく、3人の心に入り込んで言葉で操ろうとする不思議な人物〔男か女かも分からない〕。「盗人」の最後の言葉の1つに、「(生きることは)同一化でも非同一化〔感情の現実からの分離・客観化〕でもない」という非常に難解な言葉がある。また、盗人は、こうも話す。「世界は夢でできている。お前たちが起きている時、お前たちはもはや存在しない。現実は無意味だ。お前たちが、すぐに消えてなくなるものを盗んだ瞬間にだけ、現実はお前と夢の間に存在する。現実はお前たちの夢を盗み、お前たちは夢のため現実を盗む。現実はお前たちの命を盗み、お前たちは生きるために現実を盗む」。映画の台詞とはとても思えない。そして、最後の言葉は、「我々はひとりひとり、一生重い責任を背負う」「唯一確かなことは、我々は死ぬということ。だから、生きていられる」。映画は、第1部「ΤΟ ΔΙΧΤΥ(最終結果→宿命)」(約10分)、第2部「ΤΑ ΖΑΡΙΑ(サイコロ→偶然)」(約22分)、第3部「ΒΟΥΛΗΣΗ(意志→自由意志)」(約54分)に分かれている。それぞれが、同じ日の 同じ登場人物の 同じ行動を、異なる視点から捉えている。この映画、何度観ても理解できなかった。幸い、このサイトは映画そのものを紹介するわけではないので、あらすじも、映画の難解さを少し味わってもらい、基本は 子役のHaris Angelouの紹介にとどめる。

この映画の中で、「焼死させられた」息子の2年後の姿を演じている10歳くらいの少年がいる。それが誰なのか確定できない。映画のエンドクレジットには4人の男性の名が、役名なしで1人、もしくは、2人ずつ表示される。一番最初に示されるのは「弟」を演じる男優。その後、3人の女優の名前が1人ずつ紹介される。順番は、不明だが、姉、妹、盗人の何れかであろう〔盗人は男優かもしれない〕。その先は、2名連記となる。最初の2名の下側がFilippos Intzes、最後の2名の上側がSotiris Dimitriou、下側がHaris Angelou。IMDbのCastは、エンドクレジットとは無関係に並んでいるので、参考にならない〔1番上がHaris Angelouになっていて、主役が13番目になっている/よくあるように、出演順ですらない〕。この3人のうち、1回しか映画に出ていないのは、Filippos Intzes とHaris Angelouの2人。このうちどちらだろう? 一番台詞の少ない子役は最後と考え、ギリシャ語のサイトを探したら、Χάρης Αγγέλου(Haris Angelou)は、2004年に「王子と乞食」の劇に出演したとあった。従って、子役のリストにはHaris Angelouの名前で登録した。彼の出番は、第1部は1回のみの短いシーン。第2部は最も長く3回。1回目は50秒だが台詞が一番多い。3回目は3分20秒続く全裸シーンだが母と子の愛の深さを表現したもの。第3部も3回。2回目は約5分続く集団シーンの中で、短いが台詞もある。3回目は、映画の最後を飾る印象的なシーン。


あらすじ(該当分のみ)

映画の冒頭、最初に映るのが、このロウソクのシーン(1枚目の写真)。これは、映画の中で、死を悼む場面で登場する多数のロウソクの前触れともとれるし、この映画の中で大きな意味をもつ「火」そのものともとれる(映画の最後も死と燃え盛る火で終る)。この映画は、寓意的なシンボリズムで貫かれている。ロウソクの火が消え、題名『ΚΛΕΦΤΗΣ ή Η ΠΡΑΓΜΑΤΙΚΟΤΗΤΑ』が表示される。直訳すれば「盗賊と現実」になるが、それではこの映画のアヴァンギャルドな演劇性にそぐわないため、「盗人と空蝉」と、より叙情的で曖昧な表現とした。この盗人と現実という2つは この映画の主題で、そのため、内容をきわめてわかりにくくしている。なお、題名の下には「3つの解釈」という言葉が添えられる。この映画は3部に分かれているが、そのそれぞれが、同じストーリーを異なった視点から描いていることを示唆している。そして、第1部「最終結果」、より内容にそぐえば、「宿命」。つまり、ある一家の1日に起きたこと(宿命)を短くまとめた要約になっている。そのスタートは、全体を統括する盗人のシーン開始宣言(2枚目の写真)でスタートし、裸の女性が横たわる通路の上を彫刻家である姉が歩いて行く(3枚目の写真)。姉は、創作上の何かで悩んでいて、最後に解決したらしく、「終わった」と言って本の上に顔を伏せる(4枚目の写真)。映像の対象性は、この映画の1つの特徴でもある。また、第1部は極端に台詞が少ない。
  
  
  
  

続いて、盲目の女性が葬儀用の花飾りを作っている〔この女性が誰なのか、最後まで分からない。一家は姉弟妹の3人なので、親戚か、親友か?〕。背後は一面のロウソク。そこに登場する1人の男性。この映画の一番の主役となる「女流彫刻家の弟」だ。第1部では、彼が死んだことのみが示される。自分の棺の前に出現し、その姿が次第に消えていくことで「死」を表現している(1枚目の写真)。次に、弟が盗人にタロット占いを受ける場面がある〔第1部ではタロット、第2部ではサイコロ、第3部ではチェス〕。3枚のカードの中央は「骸骨」なので、死を現している。ここまでが、弟。次の場面では、姉が壁に寄りかかって嘆き、その奥の立方体の枠の中には、右に、死んだ母を背負った弟がいる。そして左には、妹が2年前に自らの過失で焼死させた息子を抱いている(2枚目の写真)〔Harisが初めて登場するシーン〕。弟と妹は額を合わせる。悲しみの共有か? 盗人が、「アベマリア」と彫られた文字を指す(3枚目の写真)。
  
  
  

妹が腹部を押えながら台の上で苦しむ。背景にはガラスの器が並ぶ棚がある(1枚目の写真、このシーンは 各部ごとに3回現れる)。すると、母の記憶は蘇り、男と欲情のベッドに入っていて飛び起きると、息子の寝ていたベッドは炎に包まれていた。妹は絶叫する(2枚目の写真)〔ここで 2年前に焼死したのがHarisの演じる少年〕。姉は、開いていた本を閉じ、「汝、殺すなかれ」と言う(3枚面の写真)〔当然、妹の行動を強く批判した〕。映画が始まって7分。ようやく2つ目の台詞だ。しかし、この「汝、殺すなかれ」は、次のシーンにも関連している。首を吊って死んだ兄の体を、姉と妹が支え、盗人が布を外して死体を下ろす。
  
  
  

ここから、第2部。「サイコロ」、より内容にそぐえば、「偶然」。具体的に何が起こったかが映像化される。そして、そこには偶然が作用していたことが分かる。最初に映るのが、妹の欲情シーン。この母は、息子を放っておいて男と性欲にふけっている(1枚目の写真)。すると、男は立ち去り、1人になった妹の背後に1人の少年が現れる。少年は、母の顔から肩にかけて愛しげに触る。そして、首筋にキスをする(2枚目の写真)。妹は、「あなたは誰?」と訊く。「大きくなったあなたの子供」。「声が違うわ」。「辛い〔焼け焦げたことに〕耐えたから」。「痛いの?」。「時が癒してくれた」。「濡れてるわ。寒いの?」。「海を越えてきたから」。「なぜ、戻って来なかったの?」。「死んじゃったから!」。そして、去って行く。これは現実の世界で母が見た夢だったのだろうか? 妹はベッドから起きると、涙を流し、自分の過ちを思い出し、もがき苦しむ。その直後のシーンは、妹の後悔の念を映像化したもの。妹は、土くれの山にすがるように抱きつくと、「坊や、許してくれなくていいのよ」と声をかける(3枚目の写真)。「私の魂は永遠に救われない。でも、あの時、私があんなことをしていなければ、あなたは救われていたかもしれない。私が、あなたに、歌ってあげたり、お話をしてあげたりしていたら… でも、もう遅すぎる」。そして、亡くなった息子への永遠の愛と、情欲には二度と走らないことを誓う。次は、弟が盗人とサイコロで勝負する場面。負ける。第2部の題名の「サイコロ」が直接関連するのはこの短いシーンのみ。
  
  
  

そして、第1部でもあった、ガラスの器が並ぶ棚の前でのシーン。妹は、テーブルに置かれたガラスのコップに顔をつけ、苦しみのあまり呻き声をあげながら、コップを次々に床に落とし(1枚目の写真)、テーブルの上に乗り、仰向けになって前を見つめる。その前に、息子が立っている(2枚目の写真)。彼は、「ママ、見えないの? 僕、燃えてるよ」と落ち着いた声で言う(2枚目の写真)。妹は、欲情の床から飛び起きると(3枚目の写真)、炎に包まれた息子のベッドを見て絶叫する(4枚目の写真)。最後の2枚は、以前の映像とほぼ同じものだ。1つの事故が、視点を変えて語られる。
  
  
  
  

妹と盗人の話。そこで、盗人は、弟が首吊りの真似をしようとしているうちに、足を乗せていた台が動いてしまい、助けようとしたが間に合わなかったと話す。「あなたは誰?」。「盗人」。そして、第1部でもあった「首を吊って死んだ兄の体を、姉と妹が支え、盗人が布を外して死体を下ろす」シーンのくり返し。その後、弟の遺体を前に、3人が座っている時、姉がいきなり「マタイによる福音書」の第25章14.15と28-30を唱える。唱える内容は、映画とも乖離しているので、趣旨が分からない。その直後、妹は、「私は、2年前 息子を亡くした。あの子の小さなベッドが炎に包まれた」と言い出す(1枚目の写真)。それを聞いた盗人は、「私は何も言わない。私には、馬の魂、猫の眼、狐の心臓があったから盗人になった」「盗人になるには芸術家にならないといけない」と自慢する。そして、兄にも盗人の心があれば、「首を絞めてしまうことになる」と気付いたはずだと指摘し、妹の反撥を買う。妹は、2年前の夜に大きなものを失い、以来取り戻せていないからだ(2枚目の写真)。妹の想念の中で、息子が水の中から蘇る(3枚目の写真)〔燃え死んだ息子は 水の中にいるのが好き〕
  
  
  

妹は、意味のない言葉を お経のように呟き始める。「黒、水、黒い水、水は黒い、黒い黒い水」。そこに「母と子」が入って行く(1枚目の写真)。2人は正座し、向かい合い、手を取り合う。「何も言えない、言わない何も。何も見ない、見ない何も」。2人はお互いに足を開いていく(2枚目の写真)。「知っている。奇跡なんかない、棚ぼたなどない。奇跡も棚ぼたもない」。2人は体を密着して向かい合う(3枚目の写真)。「責め苦。残酷」。母は顔を水につけ、しばらく潜っていて、再び出すと首を振る(4枚目の写真)。「言葉がない、何と言おう。水が見えない、水を通して見えない。濡れて溺れる、溺れない、もう溺れてる、あなたは溺れてる、溺れてない」。2人はぐるぐると回転を始める。「あなたは燃えている、水の中の火、水の中の煙。燃えている、火、煙」(5枚目の写真)。「私の子供は水を見ない、記憶がない。私は目撃した」「川、泳ぐ、川であなたは泳ぐ」「私は人生の刺激、あなたは人生の刺激」「これは別の人生。違う、これが人生」「行かないで。どこに行くの? 連れて行って。どこに行くの?」。2人は激しく絡み合う(6枚目の写真)。そして、再び2人は抱き合う。「寒い? 私は寒い、寒さで震える」。母は子を抱きしめる。「もう息ができない。冷たさが私を圧倒する」。このシーンは、大人と子供ではあるが、女性と男性が全裸で絡み合う。しかし、そこには母の子に対する切ない愛が溢れていて、異常な感じはしない〔撮影や、演技は大変だったと思うが…〕
  
  
  
  
  
  

ここからは、クローズアップの静止したシーンが幾つか続く。最初が、母に後ろからぴったりと寄り添う息子(1枚目の写真)。「忘れよう、だから寒い」「あなたに読んだ本の中で、彼は死ぬだろうと言っていた。寒さが彼の心臓に届いた時、彼は痛みを感じなくなる」「聞こえる、教会の鐘が、何回も」。ここで母が息子を抱く形に変わる(2枚目の写真)。「彼は、死ぬ前に太陽が昇るのを待っている」「あなたは湖の底に沈んだ村の鐘の音が聞こえる」。ここから、母は、自分の体の上に乗せた息子の鼻や口を愛しげに触る(3枚目の写真)。「ソクラテスの体が足から麻痺し始める」「魚が臭う、塩分は臭い」「水は何年も私を浸す、私は溺れた女性」「私は何も見ない。あなたの言葉は聞こえるけど、理解できない。声は聞こえるけど、それは言葉ではない」「わが子。坊や。私の命」。そして、息子の顔が、一瞬水に映り(4枚目の写真)。消える。このシーンも、先ほどの続き。動きがない分、母の感情がこもっているが、「お経」の呟きとシーンとの間には最後の言葉を除き、何の関係もない。2つの節にわたって続いた「母と子」のシーンで、妹の持つ深い喪失感がよく分かる〔因みに、2つ前の節にあった「妹と盗人」のシーンで、背後に映っている窓のような開口部は、映画の最後に2人が出て行く場所にもなっている→物理的な出口ではなく、心理的な出口?→だから、「母と子」の邂逅も実現した?〕。妹は盗人の前に戻り、そのすぐ後、第2部は終わる。
  
  
  
  

第3部「意志」の前半について、簡単に触れておこう。まず、弟と盗人によるチェスがある。どの局面でも、常に弟は負ける。すべては同じ結果を、別のフェイズで描いているだけだから。ガラスの器が並ぶ棚の前での妹の嘆きも3度目、同じような出だしだが(1枚目の写真)、「なぜ、私が燃えなかっただろう? 昨日は雨が降っててバルコニーに出たのに、なぜ稲妻に打たれなかったんだろう?」と口走る。「私は死ななかったから、死ねる」。そう言うと、第2部のように ガラスコップを落とす代わりに、ガラスコップを割れんばかりに抱いて悲しむ。この第3部では、弟がアンティゴネ〔ソフォクレスの同名原作の主人公、テーバイの王オイディプスの娘(王女)〕になりきって、劇のように台詞を読む長いシーンが何箇所かある。妹の場面の次にあるのは、姉と妹の前で、「エポードス」の章(891-922行目)を3分近くにわたって独白するシーン(2枚目の写真)。その後も、第800行のあたりを中心としたパフォーマンスが何度も入る。最後の台詞が発せられる直前、妹は、第2部に出てきた土の山を狂ったように崩す。それを見た姉が、「殺したことを、まず、あの子に詫びるべきね」と冷たく言うと、妹は、「私は、憎むためじゃなく、愛するために生まれてきたの」と反論し、最後に、弟がイスメネの台詞、「罪は自らを露にする」を発し、姉を諌める。そして、その直後に3枚目の写真の場面となる。第1部のような立方体のキューブの中に、5人が入っている。第1部では姉だけ離れていた。この場合は、姉も一緒で、弟以外全員服を着ている。第1部の時のような悲しみは感じられない〔この時点で、弟はまだ生きていて、姉と妹も離反していない〕
  
  
  

アンティゴネになりきった弟は、原作のアンティゴネと同じように首を吊るシーンを演じたくなる。そして、台の上に乗って布を首に巻きつけていく(1枚目の写真)。足の下の台が、どういう経緯で外れたのかは明らかにされない。次のシーンでは、首を吊って本当に死んでしまった弟の脚を、姉と妹が両側から支えるシーンとなる。盗人がイスに登って布を外し、3人で遺体を運び、台の上に安置する(2枚目の写真)。すると画面は暗転し、「私は死んで、想像もしなかった世界にいる自分を見出した。私は死んで、親交を得た。恐るべき真実だ」という弟の言葉が入る。
  
  

その「場所」には、これまで映画に登場した全員が集っている。妹が、「事故だった」と発言する。「何て恐ろしい事故なの。アンティゴネになりきって、自分で首を吊るなんて。想像力の欠如だわ」(1枚目の写真、息子もこの場所にいる)。弟は、「僕を罪に陥れようとしても、誰も取り合わない」と反論する。他の在席者からもいろいろな発言があるが、妹の関心は向かい側に座っている息子に集中する。「忘れろなんて言わないでね。そのくらいなら、生きていたくない。そんなことをしてまで、人生を取り戻したくないの。気が狂った方がましよ」。それに対し、息子は、「僕は離れないよ。この先、僕の姿を見ることはずっとないだろうけど、覚えておいてね、ちゃんと案内するから」と声をかける(2枚目の写真)。この「魂の集り」のような会合は、冒頭の解説に引用した盗人の難解な言葉で幕を閉じる。解散しかけたグループの中で、妹がテーブルに横になり、息子に甘えている様子が切ない(3枚目の写真)。
  
  
  

最後のシーン。姉は家のカーテンに火を点ける〔家全体を火事にした?〕。そして、以前、妹が息子に会った時に出てきた窓(開口部)が映る。煙が漂ってくる。盗人が逃げるように飛び降りる(1枚目の写真)。すると、窓の向こうに息子の姿が現れ、手に息を吹きかけて母の方に差し出す(2枚目の写真)。その姿が消えると煙が濃くなる。妹は意を決して窓から飛び降りる(3枚目の写真)〔姉は火に包まれて死に、妹は息子の思い出にすがりつつ生き延びたのだろうか?〕。映画のラストは、火葬にされる弟(4枚目の写真)〔ただ、この直前に、姉妹が出てきて、「唯一確かなことは、私たちは死んでるってこと」と笑うので、妹は生き延びたのか、死んだのか、よく分からない〕。映像が消えると、3つの言葉が現れる。「Ο, τι ξόδεψα, το είχα. /Ο, τι φύλαξα, το έχασα./Ο, τι χάρισα, το έχω.」。訳せば、「使ったものは持っていた/取っておいたものは失った/手に入れたものは持っている」となる。この映画、最後まで、理解は困難、というか、不可能だった。監督・脚本はAntouanetta Angelidi。これが4作目となる寡作の女性監督で、何れも実験的なスタイルの難解な作品だ。
  
  
  
  

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